あそび心575『 掌に女のあそぶ夜の秋 』zzy2701
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> 『老子』第14章 無状の状、無物の象
視之而弗見、名之曰微。之聴而弗聞、名之曰希。揩之而弗得、名之曰夷。三者不可致詰。故混而為一。一者、其上不謬、其下不忽。尋尋呵不可名也、復帰于無物。是謂無状之状、無物之象。是謂忽恍。随 而不見其后、迎而不見其首。執今之道、以御今之有。以古始。是謂道紀。
> 守屋洋 訳
「道」とはどんなものか。
目で見ようとしても見ることができない。だから、形がないのである。
耳で聞こうとしても聞くことができない。だから、音がないのである。
手で捕らえようとしても捕らえることができない。だから、手がかりさえないのである。
これではその実態をつきとめようがないので、そういうものだとして認めるほかはない。
つまり「道」は、ありもしない幻ではなく、絶えることなく続いているが、「無」としか言いようのないものである。
形のない形、姿のない姿とも言えるし、「おぼろ」な状態と言ってもよい。
前から見ても後ろから見てもその姿をとらえることができないのである。
このような「道」が、太古から現在に至るまで、一貫して万物を支配している。これが「道」の本質なのだ。
> 張鍾元 訳
しっかりと見ないから、何も見えない。それは形のないものと呼ばれる。
しっかりと聞かないから、何も聞こえない。それは音がないものと呼ばれる。
しっかりとつかまないから、何もつかめない。それは実体のないものと呼ばれる。
これら三つをつきつめることはできず、混ざりあって一つになっている。
上にあっても明るくなく、下にあっても暗くない。
目に見えず、どんな名前でも呼びようがない。それはまた無に戻って行く。
それは形のない形と呼ばれ、イメージのうかばない形と呼ばれる。
それはつかまえにくいものである。近づいて行ってもその顔は見えず、ついて行ってもその後ろ姿は見えない。
遠い過去の「道」をつかまえ、現在あるものを制御すると、原始の始まりが理解できる。これが「道」の本質である。
「道」の本質を説明してくれていますが、とても不親切ですよね。私には結局何も語っていないようにしか思えません。それでも何とか考えてみます。
「道」の指示語として、「微」・「希」・「夷」と言っています。そういう性格のものであって、それは「道」の一面なのですよ。そんなものが混ざり合っているのが「道」なんです、と老子はとぼけているんですね。「道」はそんなに深いものだから、説明しようがないんだよ。結局、「道」とは<無>であるとしか言いようがないね(「復帰于無物」)。言葉遊びの好きな老子は(言葉嫌いの老子が、この頃ではことば遊びを楽しんでいるように思えてきました)、<無>としか言いようがないが、強いて、カッコつけて、これを言い直せば、「無状の状、無物の象」と呼んでもいいんだよ。だから、「道」はそんなふうにただただぼんやりしているものなんだ。「微」であり、「希」であり、「夷」なのだ、と最初に戻ってしまう。そして、結論、こうして、「道」はとらえ所のないものなんだけど、ずっと、万物を創造し、コスモスを生成してきたんだよ。
ともかく信じなさいよ。そして、TAOに入ってきなさいよ。
考える必要も、勉強する必要も、努力する必要もないんだよ。
TAOにつながる回路の中に入ってくればいいんだ。
それは難しいことじゃない。
入ろうと思えば入れるんだ。
本当にそう思えばね・・・。
またまた狐につままれたような気分の中を彷徨うほかありません。
けれど、仁も、又、言葉遊びをして、言葉を左脳的に読み込んでみたいと思います。
わけがわからん言葉というのは、不思議なもので、好奇心をそそるのですね。
「無物の象」なんていいじゃないですか。老子はネーミングの天才だったのかもしれませんね。具体的なイメージを持たないイメージ。
俳句は物を通して本質を開示するものなんですが、物を通さないで、たとえばいのちをイメージすることはできるのでしょうか・・・。
> ゆく春を瓦礫の影と見捨てたり 潔
潔さんも、やっぱり、「行く春」を「瓦礫」という具象でイメージ化してますよね。「瓦礫」を持ち出してはいるけれど、この句の本質は心象なんでしょう。
そして心象というのは、いつだって、ぼんやりしていて、恍たり、惚たりで、いのちの根源みたいなものを志向しています。心象の彼方にあるものは<いのちの故郷>なのではないかと思っています。
<いのちの故郷>とその<故郷の火>が伝わる俳句を創れたらいいなあ・・・と思っています。
TAO俳句の世界を創出したいですね・・・。
掌に女のあそぶ夜の秋 仁
流転逍遙甦る時
これは仁のTAO俳句開眼の一句です。
一見男の句ですが、TAO俳句では、男も女もありません。掌の主体は「私」なのですが、TAO俳句では、私もあなたもありません。私はあなたであり、あなたはみんなであり、みんなは一であり、一は全てであり、全ては無なんです。
掌は、だから、これら一切を畳み込んだ時空なんですね。掌は地上であり、地球であり、星であり、宇宙であるわけです。そんな中の女は、私であり、あなただというわけです。
あるいは、掌は子宮なのかもしれません。子宮はいのちの源泉。創造の源泉。子宮はいのちの故郷。いのちの故郷である子宮は同時に宇宙なんです。
TAOの回路に入れば、それを知ることができる。
「執今之道、以御今之有。以古始。是謂道紀」
「名之曰微」
見ようとしても見えないものが「道」なんだ。これを「微」と呼んでいるんだよ。
ああそうですか・・・。と言うほかありません。納得したようで、何も理解できていない。じゃあ、「微」って何ですか?
『漢辞海』を調べてみました。
「はっきりしない。うすぐらい」というのがあります。「きわめて小さい。ささやかなさま」というのもあります。老子好みですね。「精緻で巧妙なさま。深遠で理解しがたいさま」というのもあります。全く「玄之又玄」ですね。「衆妙之門」」ですよ。
驚いたのは、「数詞」としてあるのです。
「寸の百万分の一。≪ささいな事柄をたとえる≫」というのです。
私は、ええっ!! と驚いてしまいました。
これは一大発見です。私は驚喜しましたね。だって、「寸の一万分の一」は「10のマイナス43乗分の一」に近いじゃありませんか。計算はわかりませんが、これは、同一語ですよ。 ビッグバンの一と同じなんです。
「道」の説明なんですよ。「道」は「天地之始」なんですよ。「似万物之宗」なんですよ。偶然の符合なんでしょうか・・・。
老子は天地創成をビッグバンだと看破していたんではないでしょうか・・・。
そうだとすれば、老子の<無>をエネルギーの源泉として理解してきたことの内実が把握できたことになります。
宇宙の始まりは、プラスの世界とマイナスの世界の重なり合いだったそうです。
プラスとマイナスが重なると<無>なんです。
これは、もう、 「視之而弗見、名之曰微。之聴而弗聞、名之曰希。揩之而弗得、名之曰夷。三者不可致詰。故混而為一。」
ですよ。「見えず、聞こえず、得れず」ですよ。
プラスは「色」、マイナスは「空」と読み換えることもできます。
つまり、「色」と「空」が重なると、<無>なんです。
「色即是空」は=<無>なんですね。
「空即是色」も又<無>なんです。
「色即是空、空即是色」は<無>の二面性です。
私という個体から見れば、「私は空である」。空という宇宙の方から見れば、「宇宙は私である」というわけです。
宇宙が、その一部として、私になったのです。
宇宙は、その一部として、あなたにもなりました。
私もあなたも個体としては別々ですが、元々は、同じ者なんです。
宇宙は、又、その一部として、野の花にもなりました。そして、又、宇宙は、その一部として、蛇にもなりました。野の花も蛇もあなたも私も、元々は、同じ者なんです。元々は同じ者だから、野の花や蛇やあなたと私は交感できるのです。交感できるから、野の花を知り、蛇を知り、あなたを知ることが、私自身を知ることになるのです。
野の花のことを知らなかった私は、私自身のことを知らなかった私なのです。
あなたのことを知らなかった私は、私自身のことを知らなかった私です。
文学は神話に始まり、私小説に辿り着きましたが、これからは無私小説に向かって歩み始めるのではないでしょうか・・・。
芭蕉は<松のことは松に習え>と説きましたが、言い換えれば、<私のことは松に習え>ということだったのでしょう。
無私小説は、又、虫小説でもあるのですね。
グレゴール=ザムザは甲虫になりましたが、甲虫になった人間でした。それはあくまでも批評精神というものだったようです。フローベル流に「甲虫が私だ」というような小説が書きたいなぁと思いますねぇ・・・。けれど、私は、甲虫のことを何一つ知りません。 足下の薺のことさえ知らないのです。
> よく見ればなずな花咲く垣根かな 芭蕉
芭蕉も、おそらく、薺のことをそれほど知っていたわけではないでしょう。けれど、芭蕉は、垣根に密かに咲いている薺の花にさえ心を奪われるほど、いのちを愛おしんでいたということを驚異として感じます。
ひょっとすると芭蕉は無私文学の源流なのかもしれません。
> ただひとつ必要なことは
もう少し気をつけるだけ
自分の目の前にあるものに
あなたが目をやり、見、注目できるように
ーパグさんの『TAO』P93
薺の花に芭蕉は何を幻視したのでしょうか・・・?
ひょっとすると、<無物の象>を幻視したのかもしれませんね。芭蕉も、又、老子の徒でした。<物の見えたる光を言い止むべし>。
> 古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉
芭蕉は「蛙」を見ていたのでしょうか・・・?
それとも、「水の音」から、蛙を幻視したのでしょうか・・・?
芭蕉は春まだ遠い古池の辺りにいて、瞑想していたのではないか、そんな気がします。 瞑想の中で<無物の象>を感受していた。
来るべき春の兆しが荒涼とした古池の辺りにも充溢している気配を楽しんでいる。草木の芽吹き、虫たちの息吹、弱々しい日差しの中にいのちを放下していた・・・。すると、唐突に、ポチャンと水の音がした。「おお、蛙の奴め、じっとしとけず水に飛びこんだな。おお、スプリング!」
蛙は現実蛙だったんでしょうが、<無物の象>の交感の中では、蛙は、蛙であって、もう、蛙ではなくなるのです。蛙は、蛙を越えて、スプリング、春の精になっているのです。蛙が春の精になるとき、芭蕉は蛙になっている。それらの変貌、転身が、「水の音」という一瞬の間に、引き起こされる奇蹟的な至福の体験があるのです。
そして、その「一瞬の至福の体験」は一瞬の内に「永遠」を孕んでいるのです。
私は、TAO俳句について、考えはじめてから、芭蕉の見方が変わりました。
芭蕉をTAO俳句の師と考えて見ようと念っています。
> 女あり
二人ゆく
若きは うるわし
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> 『老子』第14章 無状の状、無物の象
視之而弗見、名之曰微。之聴而弗聞、名之曰希。揩之而弗得、名之曰夷。三者不可致詰。故混而為一。一者、其上不謬、其下不忽。尋尋呵不可名也、復帰于無物。是謂無状之状、無物之象。是謂忽恍。随 而不見其后、迎而不見其首。執今之道、以御今之有。以古始。是謂道紀。
> 守屋洋 訳
「道」とはどんなものか。
目で見ようとしても見ることができない。だから、形がないのである。
耳で聞こうとしても聞くことができない。だから、音がないのである。
手で捕らえようとしても捕らえることができない。だから、手がかりさえないのである。
これではその実態をつきとめようがないので、そういうものだとして認めるほかはない。
つまり「道」は、ありもしない幻ではなく、絶えることなく続いているが、「無」としか言いようのないものである。
形のない形、姿のない姿とも言えるし、「おぼろ」な状態と言ってもよい。
前から見ても後ろから見てもその姿をとらえることができないのである。
このような「道」が、太古から現在に至るまで、一貫して万物を支配している。これが「道」の本質なのだ。
> 張鍾元 訳
しっかりと見ないから、何も見えない。それは形のないものと呼ばれる。
しっかりと聞かないから、何も聞こえない。それは音がないものと呼ばれる。
しっかりとつかまないから、何もつかめない。それは実体のないものと呼ばれる。
これら三つをつきつめることはできず、混ざりあって一つになっている。
上にあっても明るくなく、下にあっても暗くない。
目に見えず、どんな名前でも呼びようがない。それはまた無に戻って行く。
それは形のない形と呼ばれ、イメージのうかばない形と呼ばれる。
それはつかまえにくいものである。近づいて行ってもその顔は見えず、ついて行ってもその後ろ姿は見えない。
遠い過去の「道」をつかまえ、現在あるものを制御すると、原始の始まりが理解できる。これが「道」の本質である。
「道」の本質を説明してくれていますが、とても不親切ですよね。私には結局何も語っていないようにしか思えません。それでも何とか考えてみます。
「道」の指示語として、「微」・「希」・「夷」と言っています。そういう性格のものであって、それは「道」の一面なのですよ。そんなものが混ざり合っているのが「道」なんです、と老子はとぼけているんですね。「道」はそんなに深いものだから、説明しようがないんだよ。結局、「道」とは<無>であるとしか言いようがないね(「復帰于無物」)。言葉遊びの好きな老子は(言葉嫌いの老子が、この頃ではことば遊びを楽しんでいるように思えてきました)、<無>としか言いようがないが、強いて、カッコつけて、これを言い直せば、「無状の状、無物の象」と呼んでもいいんだよ。だから、「道」はそんなふうにただただぼんやりしているものなんだ。「微」であり、「希」であり、「夷」なのだ、と最初に戻ってしまう。そして、結論、こうして、「道」はとらえ所のないものなんだけど、ずっと、万物を創造し、コスモスを生成してきたんだよ。
ともかく信じなさいよ。そして、TAOに入ってきなさいよ。
考える必要も、勉強する必要も、努力する必要もないんだよ。
TAOにつながる回路の中に入ってくればいいんだ。
それは難しいことじゃない。
入ろうと思えば入れるんだ。
本当にそう思えばね・・・。
またまた狐につままれたような気分の中を彷徨うほかありません。
けれど、仁も、又、言葉遊びをして、言葉を左脳的に読み込んでみたいと思います。
わけがわからん言葉というのは、不思議なもので、好奇心をそそるのですね。
「無物の象」なんていいじゃないですか。老子はネーミングの天才だったのかもしれませんね。具体的なイメージを持たないイメージ。
俳句は物を通して本質を開示するものなんですが、物を通さないで、たとえばいのちをイメージすることはできるのでしょうか・・・。
> ゆく春を瓦礫の影と見捨てたり 潔
潔さんも、やっぱり、「行く春」を「瓦礫」という具象でイメージ化してますよね。「瓦礫」を持ち出してはいるけれど、この句の本質は心象なんでしょう。
そして心象というのは、いつだって、ぼんやりしていて、恍たり、惚たりで、いのちの根源みたいなものを志向しています。心象の彼方にあるものは<いのちの故郷>なのではないかと思っています。
<いのちの故郷>とその<故郷の火>が伝わる俳句を創れたらいいなあ・・・と思っています。
TAO俳句の世界を創出したいですね・・・。
掌に女のあそぶ夜の秋 仁
流転逍遙甦る時
これは仁のTAO俳句開眼の一句です。
一見男の句ですが、TAO俳句では、男も女もありません。掌の主体は「私」なのですが、TAO俳句では、私もあなたもありません。私はあなたであり、あなたはみんなであり、みんなは一であり、一は全てであり、全ては無なんです。
掌は、だから、これら一切を畳み込んだ時空なんですね。掌は地上であり、地球であり、星であり、宇宙であるわけです。そんな中の女は、私であり、あなただというわけです。
あるいは、掌は子宮なのかもしれません。子宮はいのちの源泉。創造の源泉。子宮はいのちの故郷。いのちの故郷である子宮は同時に宇宙なんです。
TAOの回路に入れば、それを知ることができる。
「執今之道、以御今之有。以古始。是謂道紀」
「名之曰微」
見ようとしても見えないものが「道」なんだ。これを「微」と呼んでいるんだよ。
ああそうですか・・・。と言うほかありません。納得したようで、何も理解できていない。じゃあ、「微」って何ですか?
『漢辞海』を調べてみました。
「はっきりしない。うすぐらい」というのがあります。「きわめて小さい。ささやかなさま」というのもあります。老子好みですね。「精緻で巧妙なさま。深遠で理解しがたいさま」というのもあります。全く「玄之又玄」ですね。「衆妙之門」」ですよ。
驚いたのは、「数詞」としてあるのです。
「寸の百万分の一。≪ささいな事柄をたとえる≫」というのです。
私は、ええっ!! と驚いてしまいました。
これは一大発見です。私は驚喜しましたね。だって、「寸の一万分の一」は「10のマイナス43乗分の一」に近いじゃありませんか。計算はわかりませんが、これは、同一語ですよ。 ビッグバンの一と同じなんです。
「道」の説明なんですよ。「道」は「天地之始」なんですよ。「似万物之宗」なんですよ。偶然の符合なんでしょうか・・・。
老子は天地創成をビッグバンだと看破していたんではないでしょうか・・・。
そうだとすれば、老子の<無>をエネルギーの源泉として理解してきたことの内実が把握できたことになります。
宇宙の始まりは、プラスの世界とマイナスの世界の重なり合いだったそうです。
プラスとマイナスが重なると<無>なんです。
これは、もう、 「視之而弗見、名之曰微。之聴而弗聞、名之曰希。揩之而弗得、名之曰夷。三者不可致詰。故混而為一。」
ですよ。「見えず、聞こえず、得れず」ですよ。
プラスは「色」、マイナスは「空」と読み換えることもできます。
つまり、「色」と「空」が重なると、<無>なんです。
「色即是空」は=<無>なんですね。
「空即是色」も又<無>なんです。
「色即是空、空即是色」は<無>の二面性です。
私という個体から見れば、「私は空である」。空という宇宙の方から見れば、「宇宙は私である」というわけです。
宇宙が、その一部として、私になったのです。
宇宙は、その一部として、あなたにもなりました。
私もあなたも個体としては別々ですが、元々は、同じ者なんです。
宇宙は、又、その一部として、野の花にもなりました。そして、又、宇宙は、その一部として、蛇にもなりました。野の花も蛇もあなたも私も、元々は、同じ者なんです。元々は同じ者だから、野の花や蛇やあなたと私は交感できるのです。交感できるから、野の花を知り、蛇を知り、あなたを知ることが、私自身を知ることになるのです。
野の花のことを知らなかった私は、私自身のことを知らなかった私なのです。
あなたのことを知らなかった私は、私自身のことを知らなかった私です。
文学は神話に始まり、私小説に辿り着きましたが、これからは無私小説に向かって歩み始めるのではないでしょうか・・・。
芭蕉は<松のことは松に習え>と説きましたが、言い換えれば、<私のことは松に習え>ということだったのでしょう。
無私小説は、又、虫小説でもあるのですね。
グレゴール=ザムザは甲虫になりましたが、甲虫になった人間でした。それはあくまでも批評精神というものだったようです。フローベル流に「甲虫が私だ」というような小説が書きたいなぁと思いますねぇ・・・。けれど、私は、甲虫のことを何一つ知りません。 足下の薺のことさえ知らないのです。
> よく見ればなずな花咲く垣根かな 芭蕉
芭蕉も、おそらく、薺のことをそれほど知っていたわけではないでしょう。けれど、芭蕉は、垣根に密かに咲いている薺の花にさえ心を奪われるほど、いのちを愛おしんでいたということを驚異として感じます。
ひょっとすると芭蕉は無私文学の源流なのかもしれません。
> ただひとつ必要なことは
もう少し気をつけるだけ
自分の目の前にあるものに
あなたが目をやり、見、注目できるように
ーパグさんの『TAO』P93
薺の花に芭蕉は何を幻視したのでしょうか・・・?
ひょっとすると、<無物の象>を幻視したのかもしれませんね。芭蕉も、又、老子の徒でした。<物の見えたる光を言い止むべし>。
> 古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉
芭蕉は「蛙」を見ていたのでしょうか・・・?
それとも、「水の音」から、蛙を幻視したのでしょうか・・・?
芭蕉は春まだ遠い古池の辺りにいて、瞑想していたのではないか、そんな気がします。 瞑想の中で<無物の象>を感受していた。
来るべき春の兆しが荒涼とした古池の辺りにも充溢している気配を楽しんでいる。草木の芽吹き、虫たちの息吹、弱々しい日差しの中にいのちを放下していた・・・。すると、唐突に、ポチャンと水の音がした。「おお、蛙の奴め、じっとしとけず水に飛びこんだな。おお、スプリング!」
蛙は現実蛙だったんでしょうが、<無物の象>の交感の中では、蛙は、蛙であって、もう、蛙ではなくなるのです。蛙は、蛙を越えて、スプリング、春の精になっているのです。蛙が春の精になるとき、芭蕉は蛙になっている。それらの変貌、転身が、「水の音」という一瞬の間に、引き起こされる奇蹟的な至福の体験があるのです。
そして、その「一瞬の至福の体験」は一瞬の内に「永遠」を孕んでいるのです。
私は、TAO俳句について、考えはじめてから、芭蕉の見方が変わりました。
芭蕉をTAO俳句の師と考えて見ようと念っています。
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